ドキピー

磁力のように惹かれてく

焦がれる気持ちがいつも以上に募るのは、ライブが終わったばかりだからに違いない。
あの日3階席からわたしはステージを見ていた。
最初の曲であの人は3階を見上げ、たまたまわたしが立っている方向にいちばんに手を振った。
周りはみんなペンライトを振って色めき立ち、わたしはただ少し呆然としていた。
それは単なる偶然で、なぜなら行きますと伝えただけで何階の席だとか一言も言っていない。
あの人はわたしに手を振ったわけではない。漠然と3階席のファンに手を振ったのだ。
言えるのは、急ぎ目のあの人のテンポにドキドキはずっと止まらなかったこと。
あの人が歌うレイドバックな曲ですら口から心臓が出そうになっていたこと。
わたしのBPMがずっと軽く120を2時間ちょっと保ち続けて、帰りの電車でも胸が苦しかったこと。

ステージに立つディーン・フジオカその人は、わたしの知らない圧倒的な存在感を待っていたこと。

ライブには翔くんには内緒で行った。
友達とごはんに行ってくるよとなんとなく嘘をついてしまった。
帰ってきてからぼんやりする時間が増えて、どうしたの?と聞かれたり、その時に少し変な態度を取ってしまう気がする。
そのせいか、翔くんがコンサートに出かけていく今朝はとてもささやかなことでめずらしく何年ぶりかに喧嘩をした。
ミュージックステーションも楽しく見たし、クリスマスも平穏に過ごしたというのに。
喧嘩の理由はあまりにくだらなくて、思い出すのにも苦労するほどの小さなことだ。
仲直りしたくて仕事中LINEをしたけれど、コンサート中ではタイミングが悪くて言葉足らず。ますます雰囲気が悪くなった。
こういうときは素直に仲直りしようって言えばいいだけのはずなのに、喧嘩を引きずって夜を迎えた。
こんな夜、すっかり忘れていた。
大人になって喧嘩の仕方も謝り方も忘れたわたしはめそめそ泣いて、こんな時あの人ならどう言うんだろうとか、してはいけない比較をして、翔くんのことを少し子供だなと思ってしまったのだ。

険悪なムードに勝手に耐えられなくなって部屋を飛び出したのは、クタクタになった翔くんが眠りに落ちかけた夜遅く。
眠気に勝てなかった翔くんはわたしが出てきたことに気づいてないのか迎えに来ない。連絡もない。
行くあてもなく、かといって心配させえしまうから相葉ちゃんにもにも連絡できず、外は寒くて、でも出てきた手前、戻れない。
すっぴんだし格好も適当だしどうすればいいのかわからなくて、魔が差して、わたしはやり取りが止まっていたLINEの受話器のアイコンをタップしてしまった。


「どうかしました?緊急ですか?」


あの人は応じてくれた。
優しすぎると思う。
涙声にはすぐ気づかれた。


「泣いてる?」
「泣いてます」
「喧嘩でもしたんですか」
「……」
「図星かぁ、まいったな」
「家出してしまいました」
「え、本当に?」
「本当」


スマホの向こうで機械を通した声が少し困ったニュアンスを強くした。
もしかしたら外にいるのかな、という雰囲気も感じる。


「寒いし、帰ったほうがいいんじゃないんですか」
「でも、空気に耐えられなくて出てきたんです」
「そういうことじゃなくて」
「家出というか、そんなに大げさなのでもないんです。でも、迎えに来ないの。前はいつも迎えに来たのに」
「もしかして、自分で家を出て、迎えに来ないから意地になってる?」
「…はい」
「それは良くない」


良くないのはわかっている。
涙声でする言い訳はまったく筋が通っていなくて、電話口の相手をより困らせる。
帰りたくない、ただわたしは目的を見失ってその相手に一生懸命になってしまう。


「友達いないんですか、泊めてくれるような。あ、相葉くんじゃなく女の子で」
「1人だけ…でも朝早いからたぶん寝てます」
「寝てるような時間に僕には電話してきたんですね」
「あ…違うの、なんか、自然と……つい……ごめんなさい」
「冗談です。そんな感じで櫻井くんに謝れないかな」
「…なんでだろう、うまく謝れなくて、嫌な感じになって」
「こじらせてますね」
「えっ、そうなりますか?」
「なっちゃいます」
「こじらせ女子…」
「残念ながら」


彼の冗談にふふっと声に出して思わず笑ったら、涙は消えたけれど少し夜道に声が響いて慌ててしまった。
闇に飲まれたまま、わたしは勢いづいて口に出した。


「わたし今、ディーンさんの顔、見たいです」
さん。家に帰ったほうが」
「わかってます、わかってるけど」
「またそのうち会えます、例の付近で」
「会えます!でもいつになるかわからないもの」
「難問をずいぶん軽く押し付けてくるなぁ」
「そうですか」
「そうですよ。僕は今どう接してあげればいいのか、ものすごく困っています、ほんとものすごく」
「困りますか?」
「困ります。このまま電話を切るっていうことも選択肢としてはあるけど、できない」
「なぜ」
「見捨てたらかわいそうな声を出していたので」


気持ちはわからなくもない。
もし同じことを、たとえばわたしに好意を持っている年下の男の子がいるとして、夜中に急に電話をかけてきて、彼女と喧嘩しました、会いたいです…なんて言ってきたら、どう接してあげればいいだろう。
おうちに帰りなよと言ってあげることしかたぶんわたしにはできない。
こんなこと言って、彼のわたしへ好きでも嫌いでもない感情が「面倒くさい」に変わったらどうするの。


さんは口は固いですか」
「はい。彼には」
「それじゃダメかな」
「固いです!ディーンさんのことは誰にも話してない」
「本当に?」
「話せるわけないじゃない…」


わたしは自分が口からオペラとかって言われてることは知っているけど、本当にこの人のことは誰にも言えない。
自分がなぜ彼に電話をかけたのかといえば、ただ話し相手が欲しくて、声が少し聴きたかった。
あと、勢い。
だけど顔を見たくなってしまう。
だってわたしはこの人に焦がれているから。


「迷い込んできた猫を飼い主に返すまで保護するんですよ。極めて善意的な方針で。もはや動物愛護ですね」
「え?なんの話?」
「夜が明ける前には帰ると約束を」
「は、はい。…え?」
「今いるところの住所を教えてください」


わからぬまま、近くの電柱に書いてある住所を告げた。
通話はかなり一方的に切られ、なんだ結局切ったじゃない…と思いながらわたしはぼんやりと携帯を握りしめたまま立ち尽くしていた。
どれくらい夜道に立っていたのだろう。
そんなに長くもなく、短くもない。
寒さすら感じないくらい無がやってきて、ただ何度も信号が赤から青へ変わるのを見た。
スーッと黒いタクシーがわたしの前に停まって、ドアが開いた。


「Come in」
「え」
「Hurry」


あまりのネイティビティ溢れる発音、そして声には聞き覚えがある。
乗り込んだ後部座席の奥にはさっきまで電話していた人がいて、一瞬どういう状況か把握ができなかった。
そうだ、外にいるのかなと思ったんだったっけ。


「僕、帰ってる途中だったんです。困ってる猫がいたので、どうも情に飲まれたみたいで」
「… さっき言ってた猫、わたしのこと?」
「今気付いたんですか」


何かしたいわけじゃない。
前に浮気するタイプですねって言われたけど、浮気がしたいわけでもないし、させたくない。
だって奥さんと子供を大事に思う人だから後ろめたさは感じさせたくないし、そんな間柄になることを望んでいるわけでもない。
だけど、矛盾してるけど、わたしはもう少しこの人に近づきたい。




2016/12/23 6号