ドキピー

彼をすり抜ける視線

カルチャーショックという言葉はこういう時のためにあるのかもしれない。
タクシーですっと彼の家に着いてからここまで、周りを見渡さざるを得ない状況が続いた。
およそ翔くんとわたしの部屋ではあり得ない光景のようだった。



「ボクシングのグローブ」
「パッキャオのサイン入り、魔除けです。引っ越す度に飾ってます」
「あのパッキャオ?」
「そう。あのパッキャオ」



「靴は脱いでください」
「え?脱ぐ。当たり前」
「あ…うちの奥さんが脱がないことがあるので、つい」
「文化の違い?」
「そうそう」



「これは…刀?」
「中国武術の。その辺で練習すると職質受けます」
「ライブで初めて見ました。かっこよかった」
「それは素直に嬉しい」



すごく片付いているわけでもないけれど、汚いわけでもない。
ディーン・フジオカの部屋ってこんな感じなんだ、とすごく感動した。
忙しくてあまり掃除が行き届いていないと彼は言い訳をしたけれど、正直わたしたちの部屋よりは綺麗だ。
翔くんのスペースは資料でいっぱいだし、共用のスペースも、わたしの手抜きで結構ひどい。


「うちより綺麗です。なんかすごく…不思議な感じ」
「そうですか?」
「ここでディーンさんが暮らしているなんて」
「驚くような部屋かな?あ、その辺りは触らないで」


その辺り、と言われた場所には翔くんと同じように仕事の資料が置いてある。
台本だと思われるから、なるべく見ないようにする。
そばに赤ちゃんのおもちゃが二つ。絶対にうちにはないもの。
家族写真。これもうちにはないもの。
ほんの少しだけ傷ついたと言ったら自分勝手だろうか。
少しむせるような気持ちは飲み込んで、写真を指差してわたしは声を喉から出した。


「双子ちゃん、可愛い」
「3人目も産まれるし、頑張らないといけないんですよ父親は」
「奥さん綺麗」
「綺麗だけど、怒ると恐い」
「わたし、いつか子供産むのかな。翔くんと結婚できるのかな」
「家出をしてきた人の言葉とは思えない。…まぁ、なんか大丈夫そうですね。何か飲みますか?と言ってもお酒は僕が飲めないので、ないんですけど」
「あ、わたしも飲めない」
「なら良かった。場酔いはできるんですけどね」
「わかります。同じ。お揃い」


おもちゃを手に取って振ると、コロコロとかわいい音がした。
わたしは子供と触れる機会はない。
すごくものめずらしい気持ちになって、改めてこの人はわたしとは違うフィールドにいるんだなと感じた。
この感覚は、ライブを見てから抱くようになったもの。
1日で数千人の女性を動かすそのパワー。
それまで街で何度も偶然なのかそうでないのか出くわして、身近に感じて少し思い上がっていたのかも。
今同じ目線で話をしているけれど、本当は全然違うところにいるのかも。


「すごくよかったです、ライブ。うまく言えないけど、あたたかかった。ドキドキしてました」
「行くって言われたとき社交辞令かと思ってました」
「ううん。チケット取ってました」
「ありがとう。楽しめたなら良かったんだけど」
「楽しかった、すごく。語彙力が足りない」
「ライブの感想が言いたいって言ってたくせに」
「本当にいいものは、うまく言葉にならないんです」
「うーん。そうかも」


かわいい音が聞きたくて何度もブンブンとおもちゃを振ったら、手から抜けて飛んで行って、置いてあったギターにぶつかった。
弦が小さく不協和音を出す。
チューニングがわずかに狂っている。
ギターを弾いているところもすごく素敵だった。


さん。もっと借りてきた猫のようにおとなしくしてください」
「すみません」
「じゃあ猫ちゃんに聞いていいですか。おいくつですか」
「…永遠の22歳」
「ふっ」
「にゃんにゃん」


両手で猫のポーズをしたら、彼は鼻で笑う。
急に恥ずかしくなって、わたしは多分頰が赤い。


「ちょっと!なんで聞くの?女子に年齢。しかもこのタイミングで」
「直で聞きたくて。22歳という設定でしょ」
「なぜそれを…」
「ツイッター見つけました」
「うそ!」


わたしは飛んで行ったおもちゃを取りに行くのをやめて、その場に座り込んだ。
彼との距離。3メートル。


「仕事用のツイッターかなとも思ったけど」
「日常のツイートはしないけど、趣味実益を兼ねてます。恥ずかしすぎる」
「詮索するつもりはないんです。というか、ライブの時ファンレターの箱に手紙入れたでしょ?それで見つけた」
「え、あれ本当に読んでるの?」
「なんかヤバそうな封筒だなって思って、比較的早めに回収して開封しました。変わったあだ名だなと思って、もしかしてハンドルネームかなと思って検索したらすぐ出てきて」
「封筒、どのへんがやばかったですか?柄のチョイス?」
「神のみぞ知る…というか」
「えー」


ちょっと頭を抱えそうになる。
普段あまりに話す時間がないから、あの日わたしはライブ会場にファンレターBOXがあることに気付いてすぐに文房具を買いに引き返した。
急いで殴り書きみたいに思いつくことを書いてBOXに放り込んだのだ。
いつかは読むかもしれないとは思ったけれど、こんなに早く本人が読むとは思ってもいなかったし、気づかれるとも思っていなかった。


「なんで検索したんですか?変な名前の人くらいたくさんいるでしょ」
「名前もだけど、手紙の内容が、芸事をしているような感じがしたので、同業なのかなって。前に、今はフリーで仕事してるって言ってたでしょ。実際何の仕事してるのかなって単純に気になってて」
「次元が違います」
「でも、人から見られる側ですよね」
「ディーンさん。勘、鋭いの?」
「どうでしょう。でも、だからなんですね。うん、なんかわかった気がする」


そう言って彼は屈託のない笑顔を見せてくれた。
何がわかった気がするのかはわたしにはわからないけれど。
でもなんだけ少し、丸裸にされたような気分。
そういう好奇心が彼は豊かなのかもしれない。
SNSを使いこなす芸能人ここにあり、という気がする。


「同業だとしたら、わたしのこと避けますか?」
「特には。でも僕のことフォローしてないの、ちょっと笑っちゃいました」
「しないほうがいいかなって。お互いのため」
「どうなんだろう。それでさんにうまく仕事が回るなら、ダメってことはないのかなと思うけど」


比較的丁寧な仕草でお茶を出された。
この人がお茶をいれてくれるなんていつ誰が想像しただろう。
いつも例の場所で振り回されているから、ちょっとわがままを言いたくなる。


「冷たいのがいいな」
「え、そんなこと言う?飲んでください。没収しますよ」
「猫舌なんです。フーフーしてもらわないと飲めないの」
「自分でやってください。ていうか、わざわざ手紙入れなくても、LINEで言ってくれればいいのに」
「そんな、言えないです、今さら。好きになった経緯とか」


あっ、好きってさらっと言ってしまった。
ばればれだから、そんなに気にすることはないかな。
彼は特に気に留めることもないようで、飛んでいったおもちゃを拾ってこちらに投げてくれた。
コロコロっとまた、愛らしい音がした。
赤ちゃんも喜ぶし、それこそ猫も喜びそうな。


「お茶飲んだら少し寝てください。夜が明ける前に帰る約束です」
「え、お話してたい」
「僕、朝から仕事なんですね。僕が少し寝たい」
「あ…ですよね」


ギターの方を少し見てから、彼の顔をまじまじと見た。
歌っている時の迫力はだいぶ弱まって、とても優しい顔。
本当に動物が困っていたら、多分助けてしまうのかも。
彼との距離、2メートル。近い。




そうして静かになった薄い闇の中。
なかなか眠れなくて、床で寝ている彼の寝息だけが聞こえた。
目を閉じた彼のまつげは濃く、長く、頰に影を落としていた。
家族写真をぼんやりと見つめると、奥さんのことを愛しているんだなって、でももっと知りたいって、だけど近づきすぎてはいけないって…今そばで寝ている姿、ステージでファンに手を振る笑顔、少しぎこちないステップ、言動に見え隠れする野心。
いろんなものを考えては思い出し、芽生えて、翔くんの前でめそめそしていたのとはまた少し違う涙が頰を伝った。





さん。起きてください。タクシーを呼びました」
「…はっ!!朝ですか!?」
「超寝てた」
「寝れないと思ってたら、寝ちゃったみたい」
「忘れ物しないように。あと、このことは他言無用で願いします。お互いのために。また連絡します」
「わたしも。大阪のライブがんばってください」
「ありがとう。まっすぐ帰ってくださいね」
「うん…」
「寝る前から思ってたけど、すっぴんなんですね。悪くない」


返事をしようとしたら、タクシーに促された。
こんなに長く一緒に過ごすのは初めてだった。
油断した寝顔も見た。
そして何も起こらなかった。
起こらなくて良かったと思う。でももしかしたら、わたしの魅力が乏しいのだろうかとも思う。
これはこれで新しい秘密で、わたしは翔くんにまた新しい嘘をついた。
翔くんは出かける支度をしていて、帰るなりどこに行っていたのか問い詰められた。
「近所のカラオケに行っていた」「迎えに来なかったから意地になった」と言うと、ごめんと言われた。
罪悪感からわたしは翔くんに抱きついて、「ごめんね」と素直に返すことができた。
多分これは翔くんの「ごめん」に対する返答ではなく、自分の行いに対する言葉のない懺悔なのだと思う。
だってお財布の中には、彼から受け取ったタクシー代のお釣りがじゃらじゃら、猫じゃらし。




2016/12/23 6号