この場に留まる口実
翔くんとがんばった次の日は体が重い。
重い体をねじって、スマホを手に取った。
今日は夕方から打ち合わせがある。
翔くんはいつものように先に仕事に行ってしまった。
あの人と、年末から年明けはぜんぜん連絡が取れず寂しかったけれど、最近はレスポンスが早めだから正直ちょっと調子に乗りそうになっている。
LINEに新着のバッチが数件ついていた。
翔くんから一件。
『今夜遅くなりそう。先に寝てて』
相葉ちゃんからも。
『昨日はありがとね!!カレーってやっぱり最高だね!』
あと一件。
『明日は久々に例の店に行くかもしれませんよ~』
思わずがばっと起き上がりそうになる。
そのメッセージは、昨夜翔くんとエンヤコラしていた時間に届いていた。
わたしとしたことが、こんなお昼になるまで既読も付けずにいたなんて。
『わたしも行きたい!何時頃ですか?』
急いで返事をしたけれど、1時間経っても2時間経っても今度はわたしのメッセージに既読がつかない。
早朝に、メイク中と思われるリップクリームの画像があの人のTwitterにアップされていたから、恐らく撮影中なのかもしれない。
そればかり気にしていたらあっという間に出かける時間が来て、お化粧をしてわたしは家を出た。
電車に揺られながら何度もLINEのトークルームを開くけれど、ずっと何の変化もなかった。
今夜は翔くんの帰りが遅い。
つまりわたしも気にせず遅くなっていい。
あの人がわざわざ、いつものあのお店に行くと知らせてくれるその理由はなに?
駆けつけてしまおうか。
あの人に会いたい。
あくまでも行く「かも」って書いてあるけど、そんな意地悪はしないはずだ。
打ち合わせ中は本当にいけないことだけれどスマホが光るたびに気になって、半分は上の空だった。
例の場所からは少し遠くに位置する場所で新しい仕事の話をし、この後ごはんに行きますかと誘われるもそれを断ってわたしはあの場所へ急ぐ。
去年何度か遭遇した場所。
もはやわたしにとっては聖地のような場所。
いつの間にかLINEには既読の文字がついていた。
返事はない。
『これから行きます!もう帰っちゃいました?』
これにも特に返事はないけれどわたしは走った。
ようやくたどり着いた時には息が上がっていた。
いない。
思わずその場のガードレールにもたれかかる。
会いたくて、それだけでここに来てしまった。
8割は、いないかも。
あとの2割は本気で会えるかもって。
「Hey, you're late」
その賭けに勝ったのだって、声が聞こえてからわかった。
顔を上げたらもう彼は王子様に見えてしまって、これは恐らくわたしは完全に盲目ということなんだろう。
どうしてこんな気持ちになるんだろう。
「えっ、さん?泣いてます?」
「泣いてないです」
実際、目が少し潤んでしまった。
でも安心というか、寒い中走ったからというか、去年ぶりの再会に感動というか本当に何とも言えないものだった。
絶対にありえないこと。
その眼差しも笑顔も、わたしのために向けてほしいと思った。
「あの、ディーンさん、ごはんは」
「もう食べました。時間そんなにないんですよ」
「打ち合わせ長引いて…ダッシュしてきたのに」
ただ永遠に、一緒にごはんを食べられないのかもしれない。
もうわたしはそういう星の元に生まれたのだろうか。
「お茶に付き合いましょうか。僕はすぐ出ますけど」
「えっ」
「ガードレールでうなだれてる女性を置き去りにするのは、あんまりスマートではないですよね。それにちょっと待ちくたびれたかな」
淡い嘘のようだった。
そうしてわたしはようやく彼と、ごはんではないけれど向かい合わせにテーブルを挟むことになる。
家に上げてもらったことだってあるのに、こうするのにこんなに時間がかかるって思いもしなかった。
男の人とお茶をする。
それってこんなに労力が必要だったかしら。
「僕いま、撮影中で」
「ファンタジー大河!?」
「いえ、映画」
「あっ、結婚詐欺師の!100回観に行きます!」
「なんて適当な…いや、目つきは本気ですね」
結婚詐欺師か。こんなに優しい顔をして。
いまのわたし、騙されてしまいそう。
そして、
「ディーンさんに騙されたい」
本音が言葉で口からこぼれた。
彼は少し声を立てて笑う。
「まさか。嘘ついたり、隠し事をしたり、僕好きじゃないです」
わたしのガラスのハートは透けたピンクでできていて、透明度は比較的高くて、薄さはとても薄くて。
壊れてしまいそう、だって彼のハートはきれいなブルーで、もっと透明できれいだもの。
隠し事は嫌い。
ズキッと響く言葉、たぶん状況としてお互い様なのだと思う。
「あ、もう行かなくちゃ」
「えっ、もう!?」
「さん待ち、実はけっこう長かったんですよ。タイムオーバーです」
「そういえば、リップクリーム!Twitterがウルミーで荒れてます」
「あー…メイクさんが名前書いてくれてて。削除しました。軽率でしたね」
「わたしも同じの買います」
「えっ、わざわざ?ならこれ、あげる」
彼の手から、リップクリームがひとつ手渡される。
わたしはそれを受け取って、ぽかんと口を開けて、不思議そうに見返してくる彼の顔を穴があきそうになるほどに見つめてしまった。
矢継ぎ早に繰り出されるこの事態が理解できない。
「こ、こここれって間接キ」
「大丈夫ですか?よく見てください、まだ包装されてるし未使用です。私物だし。さっき買ったばかり」
「えっ…え」
「お茶、支払いしときますね」
そう言って立ち上がった彼はコートを羽織り、にっこりとテレビやネットや雑誌と変わらぬ笑顔を見せて立ち去ろうとした。
それはこれからまた結婚詐欺師に変身する人の顔とは思えないほどきれいで。
慌てて揺れるコートの端を掴んだ。
「どうかしました?」
「あの、今度こそ、ごはんに」
「ぜひぜひ。それじゃ」
ぜひぜひ?
厚いコートの布が手から離れる。
店の外を歩いていく彼の後ろ姿に、何の言葉もかけることはできなかった。
この思わぬ贈り物は一体何なの。
とても大きな夢を見たのかもしれないと、あいたグラスを店員さんが下げるまでわたしは放心していたけれど、手の中にはしっかりとリップクリームがあって、それは絶対に嘘ではない。
2017/1/27 6号