鳴るよ鳴るよサイレン
翔くんと一緒に暮らし始めてから、ずっといい子にしていた。
いい子にしていたっていうか、悪いことをするきっかけもなかったし、そういう誘惑はあったかもしれないけれど全部完全に跳ねつけていたと思う。
用事が終われば真っ直ぐ家に帰っていたし、変なところに行ったりもしなかった。
それが急にどうしてしまったんだろう。
朝帰りがここ数ヶ月たまにある。
翔くんは怒らないし何も疑わない。
割と早朝に目覚めたと思ったけれど、たくみくんは朝眠っているわたしを置いて仕事に行ってしまったようだ。
起きたらもう家はからっぽで、テーブルのマグカップの横にお世辞にも上手とは言えない字で書き置きが会った。
「いびきかいてたよ」って一言。
なんとも恥ずかしい気持ちになったけれど、パジャマ代わりにあてがわれたTシャツはめくれることもなく、タオルケットも肩までかかっていたくらいだから丁重にしてもらったなと感じる。
顔を洗って、適当に置いてある化粧水で肌を整える。
前にさらっと受け取った合鍵で部屋には鍵をかけて、早い電車に乗って家へ向けて揺られ、電車の中では座ってぼんやりした。
たくみくんのところにはお泊まりグッズを置いといた方がいいのかなぁといらぬことも思った。
いらぬことのせいか、最寄り駅を通り過ぎてしまっていて慌てて電車を飛び降りる。
近年の夏は早くても日差しが厳しい。
タクシー代をケチったわたしは日傘もなくて日焼けが気になるので、信号待ちをしながら影を探した。
角のコンビニに寄って冷たくて甘いラテを買って、今日どうしようか考える。
家でできる仕事もあるけれど、ギリギリまで放っておきたい。
帰ってからまた眠ろうか、きちんと起きてまともに活動をするか。
翔くんはたぶんまだ家にいると思う。
「おや、さんじゃないですか」
その声にギョッとして、おそらく体は大きく跳ねた。
振り返ると声の主は、この間と映画を観に行った日にも出くわしてしまった二宮和也その人だ。
「おはようございます。こんな早い時間にさんに会うとは思わなかった」
「あの…少々、コンビニに」
「不倫映画の日以来ですね、家からちょっと離れたコンビニにわざわざなんのご用ですか」
どうしてニノはそういう言葉選びをするんだろう。
うまく返答できずにいたら
「あれっ?まさか、朝帰り?」
とか言ってきた。
間違っていないんだけれど、でも、はいそうですとも言えないし。
たくみくんとは昨夜ことに及んだわけではないけど、そういうことしない関係ではなくなってしまったし、でも友達だし。
「えっ、図星なの?」
驚いた顔をされたから余計に困ってしまった。
カマをかけられたみたい。
「違うの!友達の家に泊まってて」
「?また昼顔?」
「ではなくて…最近仲良くしてる子がいるの。昼顔じゃないよ」
昼顔に出てる人だから嘘だけど、嘘じゃない。
でもニノはちょっと頷いてニヤニヤしてからわたしの顔をじっと見て
「まぁ、さんに限ってそんなわけないか」
と言った。
そんなわけって、どんなわけなの。
聞けるわけないから、大量に吹き出す汗は暑さと朝の太陽のせいだと思うことにする。
だいたい、なんでニノこそそんなヨレヨレのシャツで、飲み物だけ入ったコンビニ袋をぶら下げて…と思ったけれど、よく考えたら我が家とニノの家はそう遠いわけではないので、わたしが家から離れたところを歩いていたら、会う可能性だってゼロではなかった。
うかつだった。
「膀胱炎の様子はどう?」
「変なこと聞かないで。お薬飲んでるから、良くなってると思うけど…あっ!今朝の薬飲まなきゃ」
「早く治してセックスレスをなんとかした方がいい」
「別に、そんな深刻な事態ではないけど」
「翔さんはさびしそうにしてるよ」
「そうなの?」
「割と現場で嘆いてるよ。メンバーの営みについて聞かされる身にもなってくださいよ」
そんな赤裸々に話してるの?と頭がふらついたところで、バッグの中の携帯が鳴った。
翔くんかも。
信号が青になったから慌ててニノにはバイバイして、横断歩道を渡りながらスマホを取り出しLINEをチェックする。
翔くんじゃない。あの人だ。
歩幅が緩んで、心がふわりとした。
こんなに暑いにも関わらず、なんて涼やかな「おはようございます」なんだろう。
いそいそと歩きながら返信をしようとしたら、また声が飛んできた。
「そんなに浮かれて、誰から?男?」
「やだ!なんでついてきてるの!」
「ついてきてないよ。わたくしもこっちなんでね」
ニノからは慌てて逃げて、翔くんが朝の支度をしている家へ急ぐ。
汗だくで帰ったら翔くんはいつも通りの感じで、朝帰りのことを怒っていなかった。
ちょうど髭を剃っているところで、顔を流してからわたしにおかえりと言った。
「お泊まり会楽しかった?」
「うん…翔くん、ごめんね」
「どうしたの?急に」
「あのね。ニノにさっき会って、聞いたの。早く膀胱炎治すね」
「え、何、あいつそんな話してくんの?」
いつもと変わらない翔くんに少し心が痛んだ。
2017/8/19 6号